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山菜

タラの芽、わらび、うど。

さすがに山菜だけを求めて1日中、歩き回ることはしないのだが、産直や道の駅に立ち寄るたびに血眼になって山菜を探している。東北にいた頃は歩けば山菜に当たるほどだったのだが、佐賀ではそうもいかない。田舎ならどこにでも山菜はあるだろう、と思っていた私が甘かった。

行者ニンニク、ぜんまい、ウルイ、こごみ、コシアブラ、ふきのとう、ふき、みず。

青森から送ってもらおうかとも思ったけれど、地物、のイメージが私の母へのLINEを邪魔する。

 

冬でも青々と葉物が育つこの土地で、味を好む以外に山菜を食べる必要性は皆無だ。生きていくために。「もうそれは食べられないよ」とこちらでは言われた、とうのたったふきのとうさえ食べる。食べられない=おいしくない、がこちらの基準だろうが、雪に覆われる土地では、本当に物理的に食べられるか否かが基準だ。

 

災害時に考える、なぜ大変とわかっている土地に住む?がよぎるがそのたびに、歴史を思い出す。寒く厳しい土地に住まざるを得なかった人々のことを。移民も難民もこれだけ揉めているのに、例えば北から来た人々を素直に南の人々が受け入れるとも思えない。私だってあそこに帰りたい。

 

社会性を生きるすべとして選んだならば、食もしかり。畑で育てた野菜でも食ってろよ、と山の神様たちには思われていそうだけれども、目の前に生きているものを頂く、というものも恐らく原始の欲求だ。

1.6

びっくりすることに2週間ほど、実家にいるのだけれども、

なかなかに疲れているのか、弱っているのか。

 

幸せとは?みたいなことを考えてしまうぐらいには、弱っている。

 

独身とはいえ、弟にも妹にも会えて。

母や父にも会い。幸せの只中にいるはずなのに。

 

風呂場で思いついたのは、幸せって、そんな継続的なものだった?もっと刹那的なものだったのでは?だった。

 

家族への感謝や安堵感。毎日、ご飯が食べられていること。

友だちと遊んだり笑うこと。仕事があること。好きな本や映画を見れること。

楽しみにしていたイベントが開催されること。やりたいと思っていたことができたこと。

誰かに褒められたこと。

 

幸福な夜もある。時間もある。

 

けれど、必ず家族とは喧嘩もするし、面倒くさい行事もあるし、気を遣うことだってある。毎日ご飯を食べるために、いやな仕事をしないといけないこともあるし、料理だって時には労働だ。食べて後悔するものさえある。友だちだって、友情を継続するには、気づかいや連絡する勇気や運もある。喧嘩だって気まずい思いをすることだってある。仕事も楽しい時もそうでない時もある。好きなことをするには体力も元気も必要で、お金も、我慢も時には必要だ。私は万人に愛されるタイプではない。

 

どちらかというと日々の根底にあるのは、刹那的な幸せと自分自身や周りへの敬意と明日も何とか生きていこうと思う力だったりする。ずっと幸せな状態が続いていないといけないと、自分を縛るのは、けっこうというか、かなりしんどい。それよりも誰にも虐げられず、嘲られず、自分の状態を理解し、てくてくと歩いて行ける元気がある方が、いいんじゃないだろうか。

 

 

12.29

27日に帰ってきて、その日は1日仕事。

でも夕方にご近所に遊びに行って、高菜の煮つけを教わる。実家に帰ってきた感満載が、楽しい。

久々にビールを飲んで、寝る。ちくしょうと思いながら仕事した。ちょっと24日のことを考えてしまう、あほ。

 

28日は午前は結局仕事。でも家の掃除を少しして、古民家に遊びに行った。

不思議なご縁とケーキと素敵なお家。縁には閉じない。バカみたいなことだってやってみる。いつかご縁になるかなぁ。

あと大好きなチョコレート屋さん。パーカーも買う。ちょっとまだ疲れ気味。でも幸せの味がした。

夜はSSを更新したけど見てくれる人少なくてちょっとへこむ。そうだよなぁ。でも好きだから書くんだ。

 

29日はカラオケ。遊び倒す。仕事も少し。今の話ができる友だちは貴重。

母と父の口げんかに慣れない。そりゃそうだ。長年私もそれを知らない。だから今学んでる。

いつも休み方って上手じゃない。疲れたまんまで予定をこなしちゃったり、その場に集中できなかったり。

余計なことを考えたり。

 

でもきっとそういうものと向き合うのも休み。普段は仕事でそれをしていないから。

9.25-2

全部、全部変わっていくんだ。

 

って思ったら泣けてきてどうした私の情緒。